栄華を誇った北前船の町
かつて橋立には船主や船頭、船乗りなど北前船に関わる人々が居住しており、日本一の富豪村と呼ばれていました。一航海千両と言われた北前船が生み出す富は莫大であり、人口の少ない小さな港や集落に経済的繁栄をもたらしました。海上輸送という手段を手にした商人たちが築いた町は想像もできないほど豊かで、高い塀や敷地内に多く土蔵を持つ豪壮な屋敷を見ると、「こんな所になぜ大きなお屋敷が」といった驚きや発見に出会うことが出来るでしょう。
コラム
航海を終わった北前船は、最後の荷揚げをしてから、淀川の下流、木津川口につないでおきました。それは、船板に穴をあける船くい虫が、川水(淡水)にはいないからです。今でも橋立の船主宅には古い船板を利用した外壁をみることができます。よく見ると、その板には船くい虫のあけた丸い穴がポツポツとあいています。
北前船主の面影を訪ねる
ひなびた町並みにしっくりと溶け合う柔らかな赤瓦の屋根、橋立の船主邸は武家屋敷のような派手さはありませんが、いかにも骨太な海の男の美意識が結集したような家構えです。外観は日本海から吹き付ける潮風からしっかりと家を守る如く船板で覆われています。船を安定させる底荷として運ばれた石は神社や参道の石段に利用されています。歴史の魅力を持つ町は数多くありますが、北前船の寄港地・船主集落は立地や町のつくり、祭り・芸能や神社仏閣の雰囲気など他地域とはかなり違う趣を感じることができます。そこは荒波を越え、人・物・文化を運んだ多くの男たちの夢が紡いだ歴史情緒に出会える異空間なのです。
コラム
船乗りたちには船中でしてはならないこと、言ってはならない言葉などがありました。特に、海が荒れるから、梅干しのタネを海に捨ててはいけない、また「かえる」という言葉は「ひっくりかえる」の意味に通じるため、「帰る」の意味で使う場合は必ず「戻る」と言いました。瀬越町の手まり唄にも「千石積んだ船さえも、風が悪けりゃ出て戻る、出て戻る」とあります。